2012年05月21日

それぞれの金環日食

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お日様が輪になってる!
と、言う人もいれば。

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それがどうしたっていうの?
って言う感じの人も。

僕は、と言えば、しばらく日食グラスで見ていたのですが、ぼんやりとしか見えなくて・・・。眼鏡をかけるのを忘れていました。
眼鏡をかけて日食グラスを通してみたら、くっきり光の輪が見えました。
posted by 五十嵐正人 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ばおばぶ(その成り立ち)

 僕らが平成元年から仕事にしている、制度外の障害福祉サービスの屋号が「ばおばぶ」です。
 前身は、小島と五十嵐がそれぞれボランティアで行っていた取り組みで、その内容は基本的には現在も変わっていません。
 当時1980年代というのは、今のような生活支援にあたる福祉サービスが希薄でした。今では考えられないようなことですが、障害児の母親が公的窓口にショートステイっぽいことのお願いに行くと、ケースワーカーが「あなたが産んだんでしょ」みたいなことを、恥ずかしげも無く口にするような時代でした。
 障害を持つ人の面倒はその家族がみるのが当たり前、みたいな迷信が蔓延っていた時代です。
 どう考えても間違っているぞ、ということで、小島や五十嵐など当時学生だった人達がボランティアとして積極的に「何かあったら、あるいは何も無くても、お預かりとかしますよ」と動き出し、それが小島と五十嵐の共同事業(現在は夫婦です)「ばおばぶ」に繋がっていきました。
 しばらくすると、全国津々浦々でレスパイトみたいな名前の、制度にとらわれない事業がたくさん生れてきました。
 「ばおばぶ」もその中に数えられることがありましたが、僕らはその集団からは距離をおくようにしていました。2つの点で、明確な違いがあったからです。
 その一つは、当時のレスパイト事業者は、多くの場合自分たちが制度化されることを願っていたからです。その理由はわかりませんが、「制度の方が経営が安定する」とか、それ以前に「福祉は制度でやるもの」と思い込んでいるとか、そんなことだったように思います。
 僕ら「ばおばぶ」は、そうしたことについてまったく同意していませんでした。「制度の方が経営が安定する」というのは、おそらく福祉の常識・世の中の非常識の類に思われます。公的なものほど赤字体質になりがちで、国鉄をはじめとして民営化による経営健全化が進められていた時代です。「制度の方が経営が安定する」とは、どうしても思えませんでした。
 「福祉は制度でやるもの」という考え方にも同意できませんでしたが、その理由については、先に書いた「もうひとつ」http://yuuko-nenne.seesaa.net/article/270465686.htmlをお読みください。
 そして二点目の明確な違いは、地域移行の考え方です。レスパイトには「アンチ入所施設」の臭いが強くありました。しかし、「ばおばぶ」は「アンチ」ではなく、「もうひとつの福祉」という「アルテルナティフ」(ここらへんも「もうひとつ」の記事とコメントをお読みください)を目指しています。入所施設を拒絶してレスパイトをするのではなく、それらをひっくるめた社会福祉の外に出ること。そして、社会福祉の外に出た「ばおばぶ」が入所施設に対しても、制度として行われる地域生活支援に対しても、「もう一つの福祉」の存在であり続けること。それが僕らの目指したところです。
 僕らは入所施設という管理システムよりも、むしろ地域生活支援の持つ、ずっと卑劣で、しかし目に見えない管理システムの方を恐れてしまう時もあるのです。
 これについてはジル・ドゥルーズも指摘しています。

  たとえば、監禁環境そのものともいえる病院の危機においては、部門の細分化や、デイケアや在宅介護などが、はじめのうちは新しい自由をもたらしたとはいえ、結局はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与してしまったことを忘れてはならない。(『記号と事件 一九七二−一九九〇年の対話』河出文庫より「追伸−−管理社会について」)

 「ばおばぶ」は障害福祉の分野に生活支援というメニューが必要だという点ではレスパイトと同じ考えを持っていましたが、「制度化志向」と「アンチ入所施設」のベクトルには向かいませんでした。
 やがて支援費制度がはじまって、全国のほとんどのレスパイトが嬉々として制度の生活支援サービスに進んで組み込まれていく有り様を、とても気持ち悪く眺めていました。それは、ドゥルーズが指摘している「はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与」する行為に他ならないからです。

 そんなわけですので「ばおばぶ」は社会福祉の制度、現在は障害者自立支援法の外にいることに拘ってやっています。制度の外なので、区分判定のようなものもありませんし、面倒くさいあれこれもありません。細かい特徴については、長くなるので後日別の記事にまとめます。大雑把にだけ書いておくと・・・。
 理由はよく分かりませんが(制度外なので、理由を聞く必要がありませんので・・・)、ほぼ毎日、誰かが利用してくれます。会員制ではないので、一見さんもいらっしゃいます。ホームヘルプとかガイドヘルプとかの制度名もありません。ご利用の方はご自身のニーズを制度のサイズに合わせて切り分けたり、変質させたり(これらも管理システムの一種です)する必要はないのです。ですから「ばおばぶ」をご利用になる方たちの多くは「ホームヘルプを二時間お願いします」とか「ショートステイを一泊お願いします」みたいには言いません。
 たとえば「息子をお願いします」と言えばいいのです。
 ここに、ご利用の方を管理システムに監禁させない「ばおばぶ」の「もうひとつの福祉」たる所以の一つがあったりします。
 ドゥルーズの先の引用には続きがあります。

  恐れたり、期待をもったりしてはならず、闘争のための新しい武器を探しもとめなさればならないのである。

 当時はまだ、ドゥルーズのこの言葉は知りませんでしたが、この言葉にあてはめて考えるなら、こういうことです。
 「もうひとつの福祉」としてある「ばおばぶ」は、僕らが「はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズム」と戦うために手にした「新しい武器」なのです。
posted by 五十嵐正人 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 「もうひとつの福祉」について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

裕子さん的弾丸トラベラー in結城

いろいろと予定が変更になったある日のこと。
「お昼は、適当に済ませておいて。夕方には戻るから」
と言われて、留守番係になった僕と裕子さん。
昼ご飯をどうしようと考えていて、それなら外で食べようと・・・。

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車を飛ばして、「道の駅しもつま」へ。
やっぱり食べるのは、ローズポーク。

夕方まではまだ間があります。
次の目的地は結城市。紬で有名な、あの結城市です。

平日ということもあって、街に観光客の姿は少なく、開けていない店舗もいくつかありました。
古い町並みには、車イスでの散策に一工夫必要なところもありましたが、趣があっていい街です。

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「つむぎの館」で染め織りのいろいろを見学させてもらいました。

その後、また街を散策していると、タイムリミット。
お土産を買って帰宅。

裕子さんの弾丸トラベラーでした。
posted by 五十嵐正人 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | あっち、こっち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

もうひとつ

 僕らは、「もうひとつ」を持つことを意識しています。
 合理性をどう考えるのかにもよるのでしょうが、社会福祉として行われる障害福祉は一つの手法に統一されることが合理的とされているようです。お金をどれだけ使わないか、とか、管理する側が管理者としてどれだけ自己満足できるか、というような合理性でみれば、それは合理的なのかもしれません。しかし、福祉を提供される側にたってみると、かならずしも一つの手法に統一されることは合理的とはいえないような気がします。人の幸せのベクトルは様々なのですから。
 かつては、社会福祉として行われる障害福祉のほとんどが措置一色でした。これが支援費制度に変わって障害者自立支援法の時代になると、契約一色です。
 ぼくはこうした極端な、手法の統一は、制度を作り施行する管理側にとっての合理性でしかないと考えます。こうした手法の統一は、いつのまにか事業者である施設や事業所の意識も呑み込んでいき、福祉を提供される側の障害者においてさえ、障害者自立支援法のサービスを使うのが当たり前、というような何の根拠もない思い込みを抱かせます。
 障害福祉を仕事とする者としては、もっと自由にやりたい。そして僕らと関わる人達にはもっと自由に生きてほしい。そう考えます。
 この思いを一つ、とても大切にして四半世紀、やってきました。
 僕らが、一人ひとりにとって「もうひとつ」の存在であるということ。
 たとえば、通っている施設も含めて障害者自立支援法の事業所を気に入っている弓子さんは、それらを楽しく使っています。しかしそれだけではなく「もうひとつ」障害者自立支援法なんて関係ない僕らとの暮らし(グループホームやケアホームではありません)や、さらに「もうひとつ」ボランティアさんたちとのお出かけなどを大事にしています。
 裕子さんは、制度なんて関係ない暮らしがベースなのですが、必要な時には「もうひとつ」として障害者自立支援法のサービスも使ってみようと思っています。

 近いんじゃないかな、と思われる考え方にフェリックス・ガタリのアルテルナティフへの言及があるので、参考までに引用します。むかし『現代思想』という雑誌の特集で、森山公夫氏、蓮實重彦氏と行った「精神医学的状況」というシンポジウムからです。

  精神医学改革のために持ち出された技術的手段としては先ず、病院内部の改革・人間化、作業療法、社交療法、責任感の意識化、療育クラブの創設・・・・・・等々がありました。この結果、いくらかの効果はありましたが、それは精神医学の根本的な抑圧感を変えることはできなかったし、またそれほど有効なものではありませんでした。次に考えられたのは、病院外活動です。患者クラブ、患者の家庭訪問、患者たちのための保護工房・・・・・・等といったものです。私としてはそれが全然効果のないものだったと言うつもりはありませんが、しかし不幸なことに、それはときとして抑圧の性質を変えながら、かえって抑圧を強化することになったと言わねばなりません。そのために、この種の活動は精神病院のミニチュア化と言われることにもなったのでした。・・・(中略)・・・「アルテルナティフ」というのはつまり別の場に立つ、精神医学の問題の外に出るということです。再び別の精神医学をやるということではなしに、別次元の解決を見出そうとすることです。(『現代思想』 1982年1月号 特集=現代フランスの思想 青土社)

 ガタリは「アルテルナティフ」について、「別の場に立つ、精神医学の問題の外に出る」としています。この言い方で言うなら、僕らの「もうひとつ」は「別の場に立つ、社会福祉の問題の外に出る」ということでしょうか。そして「もうひとつ」は、もうひとつがもうひとつであることの前提、つまり「ひとつ」の存在も認めようと思っています。それを認めなければ「もうひとつ」が「ひとつ」になってしまいますから。
 僕らのところに来てくれる人達は、多くの場合、障害者自立支援法を使っています。その「ひとつ」に加えて、僕らという「もうひとつ」を持っていてくれれば、と思います。
 加えて「もうひとつ」は名詞的なものではありません。常に新しい「もうひとつ」を求め続ける動詞的なものでありたいと思っています。
 僕らの取り組みの秘密はたぶん、制度外であることではなく、制度外という「もうひとつ」であることなのだろうと考えます。
posted by 五十嵐正人 at 00:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 「もうひとつの福祉」について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

新しいカテゴリについて

 「裕子ねーんね」は、裕子さんの日々の様子を書くことではじまったブログです。生まれ育った家を出て、僕らと新しい家庭を築いている裕子さんの様子を、裕子さんのことを知る人達に伝えていくことが目的でした。やがて弓子さんも一緒に暮らすようになり、彼女たちを知る人達に読んでもらえれば、という気楽なスタンスで運営をして今日に至っています。
 ところが東日本大震災の頃から、運営者である五十嵐が自身の意見をいろいろ書くようになり、そのせいか多くの人がこのブログを訪問してくれるようになってきました。そこで、僕らの暮らしを知らない人達にも分かりやすくするために、キーワードになっているような事を少しずつ説明していくカテゴリを作ることとしました。それが、この『「もうひとつの福祉」について』です。
 本来なら、カテゴリ「五十嵐の意見」については「裕子ねーんね」に書かずに、別のブログを立ち上げればよいのかもしれません。しかし、現在のように多くの方が訪問してくださる状態がいずれは落ち着いていくことも考えられます。そんなわけですので、特に「裕子ねーんね」のグダグダした感じが損なわれない限りは、カテゴリ「五十嵐の意見」を今まで通り居候させてもらおうと思います。
 『「もうひとつの福祉」について』が、ブログ「裕子ねーんね」に書かれている暮らしを知ってもらうヒントになれば、さいわいです。
posted by 五十嵐正人 at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 「もうひとつの福祉」について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

それぞれの母の日

弓子さんのお兄さんは、たびたび遊びに来てくれます。
この日、弓子さんはお兄さんと買い物に。
帰って来て買ってきたのは・・・。

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小島にカーネーションの贈り物。

裕子さんは、離れて暮らすお母さんに、通販で贈り物をしました。
いつもは直接持っていくのですが、今回選んだのは食べられる花のケーキ。持っていくとその間にいたんでしまうのが心配だから。裕子さんはあらためて、お母さんありがとうを言いにいくことにしました。

それにしても・・・。
僕の記憶に間違いがなければ、世の中には父の日とか僕の誕生日とかもあるはずなのですが・・・。
あっ、バレンタインデーには我が家の女性たちからチョコレートをもらいます。もっとも、もれなくホワイトデー付きですが。

裕子さん、弓子さんに限らず、我が家に来てくれるすべての方たちのお母さん、
ありがとうございます。
おかげさまで、毎日、みんなと、いい感じの時間を過ごせています。
posted by 五十嵐正人 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

自閉症をもっと理解して!

イベントの案内が届きましたのでお知らせします。

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障がい理解コンベンション2012inちば
自閉症をもっと理解して、自閉症の可能性を探ろう!

内容は、
映画『ぼくはうみがみたくなりました』

講演会 東田直樹氏 東田美紀氏

日時 平成24年6月3日(日) 10〜16時
会場 けやきプラザふれあいホール(千葉県我孫子市・JR常磐線我孫子駅徒歩1分)

参加料・申込み方法など、詳細につきましては、主催『障がい理解推進チームWa's』のホームページでご覧ください。
http://was-kashiwa.jimdo.com/

先着350名とのことですが、まだ申込み可能のようです。
posted by 五十嵐正人 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

「親学推進協会理事長 高橋史朗」さんという人の「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」に対して

 ゴールデンウィークのツイッターを騒がせた「大阪維新の会」大阪市議団の「家庭教育支援条例(案)」については、

  市議団の美延映夫(みのべ・てるお)幹事長は「ご心労をおかけした。ぜひ一緒に勉強会をさせていただきたい」と陳謝したが、条文については「ある県で議論された案を参考として議員に配っただけで、我々の案ではない」などと釈明した。(毎日新聞)

 と、いうことで、白紙撤回となったようです。
 で、一件落着かと思いましたが、思った以上に根深い問題だったようです。単純に市議の資質の問題なのではなく、あの条例案の背景にもっと凝り固まった偏見が見えてきたのです。
 僕はまったく知らない人なのですが、「親学推進協会理事長 高橋史朗」さんという人の「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」というのが、5月8日づけでネットに出てきたのです。
 下記で見ることができます。
http://oyagaku.org/userfiles/files/rinnji20120508.pdf

 一部を引用すると、

  5月6日に大阪維新の会は、「本条例は、維新案ではありません。ある県で提出された条例案を議員団総会にて所属議員に『たたき台のたたき台』として配布したものであり、今後の議論の材料として提出したもの」であることを明らかにしています。

  そのことは同条例案の前文に「本県の」と書かれていることからも明らかであり、ある県の極めて粗雑な非公式な私案が一体なぜマスコミに流れたのか理解に苦しみますが、私に対する不当な批判も散見されますので、見解を明らかにしておきたいと思います。


 この緊急声明を信じるなら、ここに「私案」という言葉が出ていることから、あの条例案を書いたのはこの高橋史朗さんという人のようです。
 「家庭教育支援条例」の時にも思ったのですが、この「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」も、悲しいくらいに論理が脆弱です。

  同条例案に「乳児期の愛着形成の不足が軽度の発達障害やそれに似た症状を誘発する大きな要因」「伝統的子育てによって(発達障害は)予防できる」と書かれていることに対して、「親の育て方が原因であるような表現は医学的根拠がない」というのが、批判の最大のポイントになっています。この批判の箇所については、私の見解とは異なる点があります。

 と書いていますが、これは僕が先の記事『「大阪維新の会」大阪市議会議員団提案予定の「家庭教育支援条例(案)」について』http://yuuko-nenne.seesaa.net/article/268376967.html で書いた通りです。「軽度の発達障害」と「それに似た症状」という異なるものを一つの「発達障害」という言葉でまとめて論じ、なんとかそれらをまとめて親への教育次第で予防・防止できるものに仕立て上げたい、という意図が感じられます。
 高橋さんのこの主張には、少々なりふり構わないところがあって、

  また、文部科学省の脳科学に関する報告書も「遺伝要因と環境要因が複雑に絡み合って発症する」と述べ、世界保健機関(WHO)は11年前に障害分類を改定し、個人の障害を環境との関係性の中で捉え、個人因子と環境因子の相互作用を重視する視点に転換しました。

 僕は不勉強なので、「文部科学省の脳科学に関する報告書」は知らないのですが、「世界保健機関(WHO)は11年前に障害分類を改定し」の方は「国際生活機能分類」のことではないかと想像します。ICFと言った方が、わかる方も多いのではないでしょうか。そこでは、たしかに環境因子という言葉が出てきますが、その使われ方、たとえば何に対しての因子なのかということについて、「国際生活機能分類」と高橋さんとではまったく異なっているように思われます。
 高橋さんは、その発達障害者の障害の状態を形作る要素の一つとして「環境因子」という言葉を使っていますが、「国際生活機能分類」では、その人が社会生活を送る上で障害となっている環境上の要因について「環境因子」という言葉を使っているのです。同分類の日本語版があるので、最初の「ICF 日本語版発行によせて」という文章から引用します。

  ICFの大きな特徴は,その評価に「環境因子」という観点を加えた点である。これまでのICIDHは,身体機能による生活機能の障害を分類するという考え方が中心であったが,同レベルの機能障害でも,バリアフリーの整備等が進んだ環境で生活していれば,そうした整備が遅れている環境で生活することと較べて活動や参加のレベルが向上する。(平成14年7月 厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長 高原亮治)

 このことが意味していることは、「環境因子」が高橋さんが主張している、その人の発達障害状況を作る要因になっているということではありません。
 たとえば身体障害の人がいた場合、その人が暮らしていく上で障害を生じさせるかもしれない環境因子として「個人的な屋内外の移動と交通のための生産品と用具」などをあげているのです。実際の文章引用すると

  屋内外を移動するために用いる装置,生産品,用具であって,改造や特別設計はなされていないもの。例えば,陸上や水上,空中を移動する際に用いる,動力つきや動力なしの乗り物(例:バス,車,バン,その他の動力のある車両や動物による輸送)。

 これが「環境因子」とされているのは、これらについて身体障害者への配慮がなされていないと、その人達が暮らしていくことに困難(障害)が生じるからです。
 高橋さんは「環境因子」が本人の障害の状態を作る要因になっているとしていますが、その文脈で無理矢理解釈するなら、配慮のされていないバスに身体障害の人が乗った場合、怪我をしてしまいそれが二次的障害となってその人の身体障害を重くする、みたいな感じでしょうか。しかし「国際生活機能分類」の「環境因子」がそうした意味合いではないことは明らかです。

 「国際生活機能分類」と高橋さんの使う「環境因子」という言葉のターゲットの違いは、まず、前者が障害を本人の要素だけではなく社会の側にもあるとしていること。そして後者は「個人因子と環境因子」によって個人としての障害者が形成されていると考えている点です。さらにこのことは、両者の決定的な違いを生んでいます。
 前者は、障害者という存在をマイナスのものと規定するのではなく、その人達が社会生活を営む上で、「こんな障害が社会にはあるんですよ」ということを明らかにしている。
 後者は、発達障害を予防・防止しようと考える。一種、発達障害者そのものを社会におけるなんらかの障害であるかのような・・・。
 僕は個人的には前者に近い考え方で、後者の高橋さんの考え方には違和感を感じます。
 考え方の内容にも同意できませんし、それを説明する際に、まるで異なることを伝えている「国際生活教分類」を持ってくるような論理的思考の欠如には、少しばかり驚いています。
 
 高橋さんは「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」の中で、こんなことも書いています。

  いずれにしても、この専門領域については未だ研究途上にあり、専門家の見解が分かれているので、見解を異にする専門家からのヒアリングをしっかり積み重ね「発達障害」という用語の定義を理解し、共通理解を深めたうえで、十分に論議を尽くして再出発する必要があると思われます。

  混乱を招いた一部不適切な条例案のために家庭教育支援条例の全体を葬り去ることは将来に禍根を残すことになります。

  今後、国会議員の勉強会でも発達障害と虐待の関係(虐待の連鎖―虐待に起因する「発達障害的症状」)、発達障害の環境要因と伝統的子育て(関わり方)などについて専門家からヒアリングを行い、科学的知見に基づく情報の提供に努めてまいりたいと思います。


 やれやれ、です。
 「国際生活機能分類」の「環境因子」の項目には、「政治的制度」という項目もあります。そこには、こんなことが書かれているので引用しておきましょう。

  社会における政治的,経済的な権力を組織する構造やそれに関連する事業。例えば,政府の行政部門,立法部門,また,権限の基となる憲法やその他の法的根拠。具体的には,政治的な組織原理,憲法,政府の行政府,立法の機関,軍隊。

 高橋史朗さんという人がどんな人なのか分からないので、「政府の行政府,立法の機関」の人達、つまり役人さんや議員さんたちに言っておきます。あなたたちも一歩間違えば人々が社会生活を行うことを阻害する「環境要因」になり得るのです。そして障害を持つ人達の暮らしに配慮した法律を立案し、施策を行っていけば「環境因子」をより良い状況に持っていくことができるのです。
 高橋さんは「今後、国会議員の勉強会でも・・・」と書いていますが、みなさんはくれぐれも日本国民が社会生活を行う上での障害にならないように気をつけてください。
posted by 五十嵐正人 at 00:16| Comment(10) | TrackBack(0) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月04日

「大阪維新の会」大阪市議会議員団提案予定の「家庭教育支援条例(案)」について

どうしても書いておきたいことなので、「五十嵐の意見」というカテゴリを作りました。「ばおばぶ」の通信のために書いた原稿なのですが、通信発行前に転載します。通信の読者の方には、ごめんなさいです。

 ゴールデンウィークの真っ只中、突然出てきた「家庭教育支援条例(案)」。「大阪維新の会」の大阪市議会議員団が提出予定という代物です。5月3日現在、ネットなどで話題になっているので、読んだ方も多いかと思います。一部新聞などでもすでに報道されていますが、まだ案としても未完成のようで、僕が手許に持っている資料の本文では文章が未整理だったり、大阪市議団が提出予定なのに「……本県の未来を託す……」となっていたり。議員団が真剣に考えたというよりも、何かをパクッたのではないかとも思われる怪しげなものです。
 本物の条例案なのか、このままの内容で提出するのか、そもそも本当に提出そのものをするのかどうか、今の段階ではわかりません。もしかしたらチョロッと出しておいて、市民の反応をうかがっているのかもしれません。いずれにしても怪しいものなのですが、情報化社会が進んでいる今日では間違った内容でも一人歩きして、いつの間にか大衆のコンセンサスを得てしまうようなこともありえます。
 みなさんの所にこの通信が届くころにはどうなっているかわかりませんが、とりあえず僕の意見を書いて置こうと思います。

 お手許に「家庭教育支援条例(案)」がある方は、ご覧になってください。お持ちでない方のために必要箇所は引用しますが、僕の引用元は下記のホームページからのものです。
 自由法曹団 http://osakanet.web.fc2.com/kateikyoiku.html
 条例案は、「前文」と、五つの章で構成されています。各章は「第1章 総則」「第2章 保護者への支援」「第3章 親になるための学びの支援」「第4章 発達障害、虐待等の予防・防止」「第5章 親の学び・親育ち支援体制の整備」とタイトルがつけられています。
 「前文」を中心として論じていくので、「前文」についてはそのまま引用しておきます。

  かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
  しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
  近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。
  さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。
  このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。
  これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。
  このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。


 気になる箇所はいくつもあるのですが、大きく3つに絞って問題点をあげていきます。
@『しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている』
 なんとなく納得してしまいそうな文章ですが、そういう上手な文章は要注意です。本当の事は、おそらく文字などでは上手に書き表すことができないような複雑な事なのでしょうから。ここでは2点指摘しておきます。
 『いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている』というのは、何時と比べて増えているという話なのでしょうか? 『戦後の……』とありますから、戦前・戦中に比べて増えているということでしょうか? でも、そんな統計が存在しているのでしょうか? 同様のことはその前の文章にもあります。『かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ』『父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた』についても、気持ちはわからなくはないですが、本当にそうだったという論証がされているのでしょうか? 今起こっているような子育て上の問題と同じようなことが、むかしは絶対に起こっていなかったのでしょうか? あるいは、『厳しい眼差しによって支えられてきた』というのは、いったいいつの時代のどの地域の、どの階層の人たちの話なのでしょうか? 歴史が遡られるにしたがって、残される資料は特権的な階層の人たちが対象となった物の割合が高くなっていきます。その一部の例をその時代の標準と思い込んで、現在の日本の状況と比較しているとすれば、正確な状況把握ができないのは明らかです。
 この「前文」は書かれる条例案がなぜ必要なのかを伝えようとしているのですが、それが根拠に乏しい思い込みだったとしたなら条例案そのものの本質が疑われます。もし、戦前と比べて『いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている』こと、『かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ』『父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた』ことがかつての日本において一般的であったことについて、科学的な証明ができないのであれば、この条例案を提出するという行為そのものが、とても恥ずかしいことのように思います。「第1章 総則」の基本理念には『(3)発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること』と書かれているのですが、論理的証明もされない思い込みで作られた条例では、そもそも『科学的知見を共有』することが不可能と思われます。
 もう一点『親になる心の準備がないまま』についてですが、これが本当ならその理由としてあげられている『子育ての知恵や知識が伝承されず』以外に、もっと重要な理由があるように思えてなりません。僕は戦前・戦中においては、親が『親になる心の準備』を否応なくしなければならない理由が、別にあったのだと思うのです。
 当時の日本では、子供の特に男子には明確な社会的な役割があったのではないか。そしてその親は子供をその役割に沿った人に育てなければならないという役目を出産と同時に(あるいは結婚と同時に)持たなければならなかった。戦前・戦中においては結婚そのものが『親になる』ことを前提としたものであり、その時点でどのように、どのような子を育てるのかの『心の準備』は決められていた。時にそれは「家を継ぐ跡取りとしての子」を産むことであったり、時には「天皇の兵隊となって御国のために戦う子」を育てることであったり……。
 もし本当に『戦後』の特徴として『親になる心の準備がないまま』が増えていて、つまり『戦中・戦後』の親たちは『親にある心の準備』ができていたとするなら、それは『子育ての知恵や知識が伝承されず』という理由よりも、明確な社会的な役割が子にも親にもあったという理由によることの方が大きかったのではないでしょうか。今日の日本では多くの子供たちは「家を継ぐ跡取り」や「御国のために戦う」ような役割は課せられていません。原則、自由に育っていいし、親も自由に育てていいのです。だから逆に、どう育てていいのかわからなくなることが多くなり『心の準備』がより必要になった。言い方を変えるなら、明確に社会的レールがあった時代には『心の準備』そのものが必要なかったのかもしれません。
 穿った見かたですが、この文章を作った人が凡人なら、単なる論理の弱さを。相当な策士なら、将来子供たちに何らかの社会的役割を持たせることを見据えての環境づくりの作戦を、この条例案に感じてしまうのです。

A『さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている』
 見逃してならないのは、ここでは『軽度の発達障害』と『似た症状の「気になる子」』を分けて書いている点です。しかし条例案に入っていくと、この両者は一体のものとして論じられるようになります。この条例案を読んでいて本当にわからなくなるのは、この条例案を作った人たちが、論理的な思考が苦手な「頭が悪い」人たちなのか、それとも知性を悪用して何かを企む「頭を悪く使う」人たちなのか、という疑問です。最初に『軽度の発達障害』と『似た症状の「気になる子」』の二種類を併記しておきながら、以後は同じ「発達障害」の言葉で括ってしまっている本当の理由。それは単なる認識の弱さなのでしょうか……。
 「第4章 発達障害、虐待等の予防・防止」の部分を引用します。

 (発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
 第15条
  乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる
 (保護者、保育関係者等への情報提供、啓発)
 第16条
  予防、早期発見、早期支援の重要性について、保護者、保育関係者およびこれから親になる人にあらゆる機会を通じて情報提供し、啓発する
 (発達障害課の創設)
 第17条
  1項 発達障害の予防、改善のための施策は、保育・教育・福祉・医療等の部局間の垣根を廃して推進されなければならない
  2項 前1項の目的達成のために、「発達障害課」を創設し、各部局が連携した「発達支援プロジェクト」を立ち上げる
 (伝統的子育ての推進)
 第18条
  わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する
 (学際的プロジェクトの推進)
 第19条
  保育・教育・福祉・医療等にわたる、発達障害を予防、防止する学際的研究を支援するとともに、各現場での実践的な取り組みを支援し、また、その結果を公表することによって、いっそう有効な予防、防止策の確立を期す


 「前文」で並記されていた、『軽度の発達障害』と『似た症状の「気になる子」』ですが、この第4章では、だんだんと一体化されていきます。第15条にはどちらにとっても『乳幼児期の愛着形成の不足』が『誘発する大きな要因である』と指摘されていると書かれています。いったい誰が、そんな指摘をしているのでしょうか? 発達障害については先天性の要因によるものだという考え方の方が現在は主流となっています。ですから『軽度の発達障害』については、『乳幼児期の愛着形成の不足』を要因とするのは間違いです。百歩譲って『似た症状の「気になる子」』について『乳幼児期の愛着形成の不足』が要因とされているとしても、この第15条は半分しか当たっていない、少なくとも50パーセントは嘘で書かれていることになります。例えていうなら『イルカと、それに似た形のマグロは、どちらも卵で生まれます』と言っているようなものなのです。
 そして、このイルカとマグロをただ似ているという理由だけで渾然一体としたような無茶な議論は、ついに両者を同じ『発達障害』という言葉にまとめてしまうのです。
 『発達障害の予防、改善のための施策は』(第17条 1項)
 『「発達障害課」を創設し』(第17条 2項)
 『わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる』(第18条)
 『発達障害を予防、防止する学際的研究を支援』(第19条)
 といった具合です。
 渾然一体を解体してみれば、条例案の知的貧弱さがよく分かってきます。表記されている『発達障害』というのは、『軽度の発達障害』を表わす語です。『似た症状の「気になる子」』の方は『似た』と断っている時点で『発達障害』ではないということになります。これに対して、書かれている内容は『乳幼児期の愛着形成の不足』を要因とする(百歩譲ってですよ)『似た症状の「気になる子」』についてのことです。この互い違いをイルカとマグロで表わすなら、「鯨類はエラ呼吸をする」と言っているようなものなのです。
 このテイタラクで、いったいどう『科学的知見を共有』できるのでしょうか?
 僕は、こうした論理のチグハグを脆弱な知性、つまり「頭が悪い」人たちの作文だと思いたいのです。しかしそうでなかった場合、すなわち「頭を悪く使う」人たちの意識的な社会の設計図づくりだった場合には、とても怖い未来を想像してしまうのです。
 先天的な要因による『発達障害』については本来『予防』『防止』というような表現は当てはまりません。当てはまるとしたなら『発達障害』そのものについてではなく、『発達障害』を原因とした社会に馴染まない行動についての『予防』『防止』ということになります。もしも、これを狙って、社会から共感を得易い『似た症状の「気になる子」』を持ち出してきたのだとしたなら……。あるいは『似た症状の「気になる子」』を『予防』『防止』することが当初の目的であったとしても、それに乗じて『発達障害』も何とかしてしまおうと考えているのだとしたなら……。
 『似た症状の「気になる子」』への『予防』『防止』の方法が、先天性要因の『発達障害』に適応するとは考えづらいことです。そこではたくさんの失敗例が生まれてくるのではないでしょうか。しかし制度の目指す方向は『発達障害』を社会に適応させる方向であり、『発達障害』も受け入れる社会づくりとは真逆です。社会適応の失敗例とされた『発達障害』への最後の『予防』『防止』策は社会からの隔離とトンチンカンな薬物療法になってはしまわないでしょうか? もしくはもっと大きな危険。尊厳死という名の美しい死、誇り高い中絶の、無言の強制(えっ、君は特攻も玉砕もしない非国民なのかい? みたいな……)まで見据えたアドルフ・ヒトラー的な強く美しい国民の国づくり……。

B『このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した』
 これは「前文」の一節です。ちょっとズルイ引用の仕方だよな、と思うところです。都合のいいところだけ引用されているので、ここでは改正された教育基本法の「家庭教育」の部分を全文引用しておきます。

 第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう務めるものとする。
 2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。


 2の方は、そのまま引用されているのですが、その前の保護者の務めに関する部分は、後半が引用されていません。でも、この引用されていない部分が大事なのです。条例案では保護者が『子の教育について第一義的責任を有する』ことを強調していますが、その教育のベクトルはあくまでも『生活のために必要な習慣を身に付けさせる』『自立心を育成』『心身の調和のとれた発達』を図るように務めることなのです。このことについて保護者は『第一義的責任を有する』だけなのだとしたなら、条例案は少し過度な『第一義的責任』を押しつけているようには思えないでしょうか? 『生活のために必要な習慣を身に付けさせる』というのは、何かを獲得していくことであり、『予防』や『防止』という表現は少々飛躍のしすぎでしょう。『図るよう務める』ものなのに、条例案の中には『第8条 すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化』(第2章 保護者への支援)という『義務化』の文字が見えたりもします。
 こうした都合のいい引用や、@で指摘したような根拠が薄い思い込み、Aで書いたようなチグハグで大雑把な論理展開。
 こんなことが万が一にも日本の標準になってしまっては困ります。『わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる』などというのは、昔の「妊娠している時に火事を見ると自閉症児が生まれる」と同じレベルの迷信なのですから。

 さて、これを書いているうちに日付が変わりました。5月4日です。ツイッターを見ると、昨夜のうちに橋下徹大阪市長が、次のようにツイートしているのを見つけました。

 維新の会市議団長に確認をしました。家庭教育支援条例は議員提案の条例案であり発案議員グループが作成し、これから市議団政調会にかけるという段階です。この段階で報道されたようです。これから政調会で議論が始まり様々な方の意見を聴取するようです

 発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け愛情さえ注げば発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではないと思うという僕の考えを市議団長に伝えました。これからこの条例案について市議団内での議論が始まります。是非大阪維新の会市議団に様々なご意見をお寄せ下さい。


 この橋下徹大阪市長のツイートを信じるならば、条例案は本当に大阪維新の会の市議団が提出しようとしているもののようです。ただし、案とはいっても『政調会にかける』段階の、いってみれば素案というようなもののようです。しかし、それにしてもどのように直されて、提出されるのか、気になるところです。そしてもう一つ気になること。大阪維新の会の市議やそのブレーン達は、橋下氏から『発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け愛情さえ注げば発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではない』という指摘を受けなければわからないほど、発達障害について無知なのでしょうか? 大阪市民の中には発達障害者はいないのでしょうか? いるのだとしたら、その市民であるところの発達障害者について理解を深めなければ、市議の資格もない、くらいに自身を律する議員は大阪維新の会にはいないのでしょうか?
 また、このレベルは他の会派や、他の自治体の議員においても、標準なのでしょうか?

それにしても、こんな粗雑な条例案が大手を振って出てくる背景には、現実にわたしたちが実感している、子供の状況と、子育ての現状への危機感があるのでしょう。だとしたなら、たとえ今回条例案が抜本的に直されたり、議会で否決されたとしても、同様のものが他の自治体で出てこないとも限りません。けっきょくのところ、わたしたち市民側が、管理をしたくてしょうがない人たちにつけいる隙を与えているのでしょう。
日々の節電で原発を無用にできるように、こんな条例も無用にできると考えます。
posted by 五十嵐正人 at 03:14| Comment(4) | TrackBack(2) | 五十嵐の意見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

お墓にお参り

4月某日、ポッカリと時間が空いたので・・・。
いつもならパーッと遊びに行くのですが、たまには僕らもちゃんとしようということで、4人のお墓参りをハシゴすることとなりました。

9時30分に出発。いろいろとコースを考えた結果、最初に我孫子市にある五十嵐家のお墓へ。父と母が眠っています。
ここは霊園になっていてあれこれ販売しているので、ここでお花とお線香を4セット購入して回ろうという作戦です。

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供養をしてくれるお寺さんも隣接

せっかくなので、霊園近くの公園を散歩。

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手賀沼沿いで、気持ちのいい公園です

続いて向かったのは、裕子さんのお父さんのお墓へ。
白井市内であることはわかるのですが、ちょっと自信がないので裕子さんのお母さんに案内していただきました。

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階段っぽくなっていると、とりあえず上ろうとする裕子さん

ちゃんと手を合わせて、心の中で(たぶん)日々の元気な暮らしのお礼を述べたはずです。

昼食を挟んで、今度は小島の家のお墓のある流山市へ。
眠っている小島のお父さんには、裕子さんも弓子さんも会ったことがあります。

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裕子さんは一緒にお蕎麦を食べに行ったことも

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けっこう由緒あるお寺なので、ついでにお参り

弓子さんのお父さんとお母さんが眠るお寺も流山市内です。

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大銀杏が見事でした

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みんなで手を合わせて、元気の報告

4箇所回って時計を見ると、あーら不思議。オヤツの時間じゃありませんか。
と、いうわけで最後は・・・。

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posted by 五十嵐正人 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする