どうしても書いておきたいことなので、「五十嵐の意見」というカテゴリを作りました。「ばおばぶ」の通信のために書いた原稿なのですが、通信発行前に転載します。通信の読者の方には、ごめんなさいです。 ゴールデンウィークの真っ只中、突然出てきた「家庭教育支援条例(案)」。「大阪維新の会」の大阪市議会議員団が提出予定という代物です。5月3日現在、ネットなどで話題になっているので、読んだ方も多いかと思います。一部新聞などでもすでに報道されていますが、まだ案としても未完成のようで、僕が手許に持っている資料の本文では文章が未整理だったり、大阪市議団が提出予定なのに「……本県の未来を託す……」となっていたり。議員団が真剣に考えたというよりも、何かをパクッたのではないかとも思われる怪しげなものです。
本物の条例案なのか、このままの内容で提出するのか、そもそも本当に提出そのものをするのかどうか、今の段階ではわかりません。もしかしたらチョロッと出しておいて、市民の反応をうかがっているのかもしれません。いずれにしても怪しいものなのですが、情報化社会が進んでいる今日では間違った内容でも一人歩きして、いつの間にか大衆のコンセンサスを得てしまうようなこともありえます。
みなさんの所にこの通信が届くころにはどうなっているかわかりませんが、とりあえず僕の意見を書いて置こうと思います。
お手許に「家庭教育支援条例(案)」がある方は、ご覧になってください。お持ちでない方のために必要箇所は引用しますが、僕の引用元は下記のホームページからのものです。
自由法曹団
http://osakanet.web.fc2.com/kateikyoiku.html 条例案は、「前文」と、五つの章で構成されています。各章は「第1章 総則」「第2章 保護者への支援」「第3章 親になるための学びの支援」「第4章 発達障害、虐待等の予防・防止」「第5章 親の学び・親育ち支援体制の整備」とタイトルがつけられています。
「前文」を中心として論じていくので、「前文」についてはそのまま引用しておきます。
かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。
さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。
このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。
これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。
このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。 気になる箇所はいくつもあるのですが、大きく3つに絞って問題点をあげていきます。
@『しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている』
なんとなく納得してしまいそうな文章ですが、そういう上手な文章は要注意です。本当の事は、おそらく文字などでは上手に書き表すことができないような複雑な事なのでしょうから。ここでは2点指摘しておきます。
『いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている』というのは、何時と比べて増えているという話なのでしょうか? 『戦後の……』とありますから、戦前・戦中に比べて増えているということでしょうか? でも、そんな統計が存在しているのでしょうか? 同様のことはその前の文章にもあります。『かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ』『父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた』についても、気持ちはわからなくはないですが、本当にそうだったという論証がされているのでしょうか? 今起こっているような子育て上の問題と同じようなことが、むかしは絶対に起こっていなかったのでしょうか? あるいは、『厳しい眼差しによって支えられてきた』というのは、いったいいつの時代のどの地域の、どの階層の人たちの話なのでしょうか? 歴史が遡られるにしたがって、残される資料は特権的な階層の人たちが対象となった物の割合が高くなっていきます。その一部の例をその時代の標準と思い込んで、現在の日本の状況と比較しているとすれば、正確な状況把握ができないのは明らかです。
この「前文」は書かれる条例案がなぜ必要なのかを伝えようとしているのですが、それが根拠に乏しい思い込みだったとしたなら条例案そのものの本質が疑われます。もし、戦前と比べて『いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている』こと、『かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ』『父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた』ことがかつての日本において一般的であったことについて、科学的な証明ができないのであれば、この条例案を提出するという行為そのものが、とても恥ずかしいことのように思います。「第1章 総則」の基本理念には『(3)発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること』と書かれているのですが、論理的証明もされない思い込みで作られた条例では、そもそも『科学的知見を共有』することが不可能と思われます。
もう一点『親になる心の準備がないまま』についてですが、これが本当ならその理由としてあげられている『子育ての知恵や知識が伝承されず』以外に、もっと重要な理由があるように思えてなりません。僕は戦前・戦中においては、親が『親になる心の準備』を否応なくしなければならない理由が、別にあったのだと思うのです。
当時の日本では、子供の特に男子には明確な社会的な役割があったのではないか。そしてその親は子供をその役割に沿った人に育てなければならないという役目を出産と同時に(あるいは結婚と同時に)持たなければならなかった。戦前・戦中においては結婚そのものが『親になる』ことを前提としたものであり、その時点でどのように、どのような子を育てるのかの『心の準備』は決められていた。時にそれは「家を継ぐ跡取りとしての子」を産むことであったり、時には「天皇の兵隊となって御国のために戦う子」を育てることであったり……。
もし本当に『戦後』の特徴として『親になる心の準備がないまま』が増えていて、つまり『戦中・戦後』の親たちは『親にある心の準備』ができていたとするなら、それは『子育ての知恵や知識が伝承されず』という理由よりも、明確な社会的な役割が子にも親にもあったという理由によることの方が大きかったのではないでしょうか。今日の日本では多くの子供たちは「家を継ぐ跡取り」や「御国のために戦う」ような役割は課せられていません。原則、自由に育っていいし、親も自由に育てていいのです。だから逆に、どう育てていいのかわからなくなることが多くなり『心の準備』がより必要になった。言い方を変えるなら、明確に社会的レールがあった時代には『心の準備』そのものが必要なかったのかもしれません。
穿った見かたですが、この文章を作った人が凡人なら、単なる論理の弱さを。相当な策士なら、将来子供たちに何らかの社会的役割を持たせることを見据えての環境づくりの作戦を、この条例案に感じてしまうのです。
A『さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている』
見逃してならないのは、ここでは『軽度の発達障害』と『似た症状の「気になる子」』を分けて書いている点です。しかし条例案に入っていくと、この両者は一体のものとして論じられるようになります。この条例案を読んでいて本当にわからなくなるのは、この条例案を作った人たちが、論理的な思考が苦手な「頭が悪い」人たちなのか、それとも知性を悪用して何かを企む「頭を悪く使う」人たちなのか、という疑問です。最初に『軽度の発達障害』と『似た症状の「気になる子」』の二種類を併記しておきながら、以後は同じ「発達障害」の言葉で括ってしまっている本当の理由。それは単なる認識の弱さなのでしょうか……。
「第4章 発達障害、虐待等の予防・防止」の部分を引用します。
(発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
第15条
乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる
(保護者、保育関係者等への情報提供、啓発)
第16条
予防、早期発見、早期支援の重要性について、保護者、保育関係者およびこれから親になる人にあらゆる機会を通じて情報提供し、啓発する
(発達障害課の創設)
第17条
1項 発達障害の予防、改善のための施策は、保育・教育・福祉・医療等の部局間の垣根を廃して推進されなければならない
2項 前1項の目的達成のために、「発達障害課」を創設し、各部局が連携した「発達支援プロジェクト」を立ち上げる
(伝統的子育ての推進)
第18条
わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する
(学際的プロジェクトの推進)
第19条
保育・教育・福祉・医療等にわたる、発達障害を予防、防止する学際的研究を支援するとともに、各現場での実践的な取り組みを支援し、また、その結果を公表することによって、いっそう有効な予防、防止策の確立を期す 「前文」で並記されていた、『軽度の発達障害』と『似た症状の「気になる子」』ですが、この第4章では、だんだんと一体化されていきます。第15条にはどちらにとっても『乳幼児期の愛着形成の不足』が『誘発する大きな要因である』と指摘されていると書かれています。いったい誰が、そんな指摘をしているのでしょうか? 発達障害については先天性の要因によるものだという考え方の方が現在は主流となっています。ですから『軽度の発達障害』については、『乳幼児期の愛着形成の不足』を要因とするのは間違いです。百歩譲って『似た症状の「気になる子」』について『乳幼児期の愛着形成の不足』が要因とされているとしても、この第15条は半分しか当たっていない、少なくとも50パーセントは嘘で書かれていることになります。例えていうなら『イルカと、それに似た形のマグロは、どちらも卵で生まれます』と言っているようなものなのです。
そして、このイルカとマグロをただ似ているという理由だけで渾然一体としたような無茶な議論は、ついに両者を同じ『発達障害』という言葉にまとめてしまうのです。
『発達障害の予防、改善のための施策は』(第17条 1項)
『「発達障害課」を創設し』(第17条 2項)
『わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる』(第18条)
『発達障害を予防、防止する学際的研究を支援』(第19条)
といった具合です。
渾然一体を解体してみれば、条例案の知的貧弱さがよく分かってきます。表記されている『発達障害』というのは、『軽度の発達障害』を表わす語です。『似た症状の「気になる子」』の方は『似た』と断っている時点で『発達障害』ではないということになります。これに対して、書かれている内容は『乳幼児期の愛着形成の不足』を要因とする(百歩譲ってですよ)『似た症状の「気になる子」』についてのことです。この互い違いをイルカとマグロで表わすなら、「鯨類はエラ呼吸をする」と言っているようなものなのです。
このテイタラクで、いったいどう『科学的知見を共有』できるのでしょうか?
僕は、こうした論理のチグハグを脆弱な知性、つまり「頭が悪い」人たちの作文だと思いたいのです。しかしそうでなかった場合、すなわち「頭を悪く使う」人たちの意識的な社会の設計図づくりだった場合には、とても怖い未来を想像してしまうのです。
先天的な要因による『発達障害』については本来『予防』『防止』というような表現は当てはまりません。当てはまるとしたなら『発達障害』そのものについてではなく、『発達障害』を原因とした社会に馴染まない行動についての『予防』『防止』ということになります。もしも、これを狙って、社会から共感を得易い『似た症状の「気になる子」』を持ち出してきたのだとしたなら……。あるいは『似た症状の「気になる子」』を『予防』『防止』することが当初の目的であったとしても、それに乗じて『発達障害』も何とかしてしまおうと考えているのだとしたなら……。
『似た症状の「気になる子」』への『予防』『防止』の方法が、先天性要因の『発達障害』に適応するとは考えづらいことです。そこではたくさんの失敗例が生まれてくるのではないでしょうか。しかし制度の目指す方向は『発達障害』を社会に適応させる方向であり、『発達障害』も受け入れる社会づくりとは真逆です。社会適応の失敗例とされた『発達障害』への最後の『予防』『防止』策は社会からの隔離とトンチンカンな薬物療法になってはしまわないでしょうか? もしくはもっと大きな危険。尊厳死という名の美しい死、誇り高い中絶の、無言の強制(えっ、君は特攻も玉砕もしない非国民なのかい? みたいな……)まで見据えたアドルフ・ヒトラー的な強く美しい国民の国づくり……。
B『このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した』
これは「前文」の一節です。ちょっとズルイ引用の仕方だよな、と思うところです。都合のいいところだけ引用されているので、ここでは改正された教育基本法の「家庭教育」の部分を全文引用しておきます。
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう務めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。 2の方は、そのまま引用されているのですが、その前の保護者の務めに関する部分は、後半が引用されていません。でも、この引用されていない部分が大事なのです。条例案では保護者が『子の教育について第一義的責任を有する』ことを強調していますが、その教育のベクトルはあくまでも『生活のために必要な習慣を身に付けさせる』『自立心を育成』『心身の調和のとれた発達』を図るように務めることなのです。このことについて保護者は『第一義的責任を有する』だけなのだとしたなら、条例案は少し過度な『第一義的責任』を押しつけているようには思えないでしょうか? 『生活のために必要な習慣を身に付けさせる』というのは、何かを獲得していくことであり、『予防』や『防止』という表現は少々飛躍のしすぎでしょう。『図るよう務める』ものなのに、条例案の中には『第8条 すべての保育園、幼稚園で、保護者を対象とした一日保育士体験、一日幼稚園教諭体験の実施の義務化』(第2章 保護者への支援)という『義務化』の文字が見えたりもします。
こうした都合のいい引用や、@で指摘したような根拠が薄い思い込み、Aで書いたようなチグハグで大雑把な論理展開。
こんなことが万が一にも日本の標準になってしまっては困ります。『わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる』などというのは、昔の「妊娠している時に火事を見ると自閉症児が生まれる」と同じレベルの迷信なのですから。
さて、これを書いているうちに日付が変わりました。5月4日です。ツイッターを見ると、昨夜のうちに橋下徹大阪市長が、次のようにツイートしているのを見つけました。
維新の会市議団長に確認をしました。家庭教育支援条例は議員提案の条例案であり発案議員グループが作成し、これから市議団政調会にかけるという段階です。この段階で報道されたようです。これから政調会で議論が始まり様々な方の意見を聴取するようです
発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け愛情さえ注げば発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではないと思うという僕の考えを市議団長に伝えました。これからこの条例案について市議団内での議論が始まります。是非大阪維新の会市議団に様々なご意見をお寄せ下さい。 この橋下徹大阪市長のツイートを信じるならば、条例案は本当に大阪維新の会の市議団が提出しようとしているもののようです。ただし、案とはいっても『政調会にかける』段階の、いってみれば素案というようなもののようです。しかし、それにしてもどのように直されて、提出されるのか、気になるところです。そしてもう一つ気になること。大阪維新の会の市議やそのブレーン達は、橋下氏から『発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け愛情さえ注げば発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではない』という指摘を受けなければわからないほど、発達障害について無知なのでしょうか? 大阪市民の中には発達障害者はいないのでしょうか? いるのだとしたら、その市民であるところの発達障害者について理解を深めなければ、市議の資格もない、くらいに自身を律する議員は大阪維新の会にはいないのでしょうか?
また、このレベルは他の会派や、他の自治体の議員においても、標準なのでしょうか?
それにしても、こんな粗雑な条例案が大手を振って出てくる背景には、現実にわたしたちが実感している、子供の状況と、子育ての現状への危機感があるのでしょう。だとしたなら、たとえ今回条例案が抜本的に直されたり、議会で否決されたとしても、同様のものが他の自治体で出てこないとも限りません。けっきょくのところ、わたしたち市民側が、管理をしたくてしょうがない人たちにつけいる隙を与えているのでしょう。
日々の節電で原発を無用にできるように、こんな条例も無用にできると考えます。